コロボックル
いつもと違う眺めを目に入れるって大切なこと。益子へドライブ。ルーシー・リーの陶器を見て、カフェでカレーとプリンを食べて、たったそれだけの贅沢な休日。雨が降ってきて、木も家も地面も人もほっとしたところ。
夏の読書。やっと一冊読み終わりました。佐藤さとる著「だれも知らない小さな国」。友人の子供(小3)が読む本を選ぶのにつきあって、ブックオフに行ったときにたまたま書棚にあった少年文庫。残念ながら、小3女子からは選ばれませんでしたが、思わずよねが買ってしまいました。
わたしも小学校3年生くらいのときに読んだはずですが(確か昭和50年代にこのシリーズの別のお話がテレビアニメ化されてたはず。いまだにテーマソング覚えているもん)、大人になった今、新しいお話を読むのと同じ感じですっかり引き込まれてしまいました。
コロボックルというのは、この物語に登場するこびと族のニックネームです。北海道のアイヌ族の言い伝えにでてくる「蕗の下の小さい人」という言葉が語源だそうです。
物語のスタートシーンは戦前の昭和の日本。小3の少年がとりもちの木を探して、「近づくとたたりがある」と昔から村人に恐れられている「鬼門山」に独りで入り込みます。主人公はなぜかそこが気に入り、独りで時間を過ごすうちにこの山の不思議な伝説と「こぼしさま」とよばれるこびとたちに関わっていくことになります。
戦争が終わって大人に成長した主人公は、開発の危機にあった「鬼門山」を守る作戦を繰り広げていくんですが、その主人公がすてきで、筋書きがすごくよくできている。やんや、やんやと応援したくなる感じ。すかっとします。ねたはばらしませんので、ぜひ、みなさんも読んでみてください。少年向けなのでとても読みやすくて疲れません。頭ほどきにおすすめです。
よねにとってのこびとものの大道は、メアリ・ノートンでも一寸法師でも親指姫でも親指トムでもホビットでもない。自分の周りにもこびとがいるみたいな気持ちにいちばんなるのは、このコロボックルなんだよなー。
投稿者 midori : 09:47 am | コメント (0)
ムーミン谷の彗星
そっかー。彼らは、はけんしゃいん、なのかー。はたらくキャラクター、なんかかっこいいな。「ともだちのしるし」と言って配っていた。子どもしかもらえない。大切そうにしまおうとしていたのを、となりの子どもからお借りした。子どもの間で名刺交換、はやるかも。
「あれがみな、きみのものなの。」
と、スニフは小声で言いました。
スナフキンは、平気な顔で、
「ぼくが、ここに住んでいるうちはね。じぶんで、きれいだと思うものは、なんでもぼくのものさ。その気になれば、世界中でも」
「あれをいくつかもらっていい? 帆前船でもスケートでも買えるもの。」
スニフがわくわくしながらききました。
「すきなだけ、とれよ。」
と答えてスナフキンはわらいました。……スニフはふうと息をついてから、ふるえる手でガーネットをあつめだしました。……(下村隆一訳 講談社青い鳥文庫「ムーミン谷の彗星」から)
きのう、おとといと、ちょっと気が重くなる案件が続き、すこーし気分が沈んでいたため、出がけに童話をバックに放り込んで家を出た。昔、読んでるはずなんだけど、細部を忘れているので、初めて読むみたいな気持ちで向かう。
彗星っていう、重苦しい現実がムーミントロールたちの毎日に張り付く。日に日に大きくなる夜空のルビー。風景が刻々と変化するのは、まるで現在の私たちの世界の温暖化と同じ。干上がった海を竹馬で渡るシーンは恐怖。
パパから言い渡された課題をつらぬく冒険に出たムーミントロールとスニフは、旅が進むほどに、自分たちが立ち向かっている彗星の本当の恐ろしさを知っていく。旅自体も子どもにはたいへん過酷な道のりで、難関が同時に二人におそいかかる。「ムーミンって楽しくない、ちょっと怖い話だわ」という印象は、この第2巻の暗さのせいかもしれない。
でもね、ちっちゃな生き物たちは、大切な仲間と巡り会う。たいへんなときでも、いつものどおりの口げんかをし、踊りたくなったらダンスをする。大切な発見をいくつもする。自分ちのベランダのすてきさ、とかね。旅、というか、生きていくことの意味が隠されている。すてきな話だった。
投稿者 midori : 11:07 pm | コメント (0)
数学に感動する頭をつくる
2007年のベストくつろぎ空間。特急電車「あやめ」の自由席。いつもタイミングが合うわけではないが、ちょうど来れば、乗ってもよいことにしている。特急料金はスタバでケーキを食べたと思って。東京と千葉間をおよそ30分とショートカット。予定を確認し直したり、デザインを考えたり。お茶を飲んだり。時間を節約しながら楽しく、くつろぐ。 今年、秋ごろに不思議な体験をした。パズルで「数独」というのがある。あれにはまったのだ。まるで、わからなかったのに、あるとき、すーっと、当てはまる数字がわかる瞬間がきたのだ。一つが決まると、どんどんほかもわかる。脳みその奥が「気持ちいー」とうなったのを感じた。
取り付かれたように、パズルが止まらなくなり、50問くらいを一気に解いた。仕事そっちのけで。パズルは難易度が上ると、またもとのように、「わからんちん」になったが、「わからないものがわかるようになる」「見えなかったものが見えるようになる」「聞こえなかったものが聞こえるようになる」という、「進化の喜び」を何年ぶりかで味わった。
「これって、デザインが決まるときとおんなじ快感じゃん」。よねの脳みそがこう言った。
「数学に感動する頭を作る」の著者は「音感と同じように、数学が得意な人には数感とでもいうべき感覚が備わっている」と言う。
「数感」は成長する段階で、数という認識をイメージに置き換えるトレーニングを積んだ子どもにしか身につかない。例えば、そろばんや公文式を小学校の低学年に叩き込まれた人は、数学のセンスが抜群にいい。暗算ができて数や量を頭の中で自由に動かす技が身につく。数を頭の中にイメージで思い浮かべられ、動かせる子どもとそうでない子の「わかった」は、問題を同じように解けてはいても、理解の深さが違うという。
よねは数学が高1の段階でまったくわからなくなった。数学、という単語はよけて歩いてきた人間である。だのに、つりこまれるように読んでしまったのには訳がある。デザインを教えていて、実は同じようなことを感じることがあったからだ。
色とか形に対して、「ここの形がきれいでしょう?」と指すと、たいていの生徒さんは「はい」と、こちらの話にあわせてくださる。デザインの勉強は、形や色修正して、前のと見比べ、良くなったかどうか確かめながら、完成度をあげていくということを根気よく繰り返す。同じことを全員に言うのだが、50人に1人くらいの割合で、すごい人がときどきいる。ちょっと動かした文字の空きとか、絵の配置を変えるだけで、2Dだった空間にばーっと奥行きが生まれる。そのちょうどいい場所を瞬時に見つけてしまう子が、たまにいる。その子にあって普通の子のにはないものってなんだろう?
かっこいいパーツを作れるとか、絵がうまい、ということも、デザインの大切な能力。でも、これは、流行のものを大量にインプットするとか、人のものを真似ることでなんとか一般人でも補える。でも、じつは、もっと必要なものがあるんじゃないかと思っていたのだ。(次回につづく)
投稿者 midori : 01:15 am | コメント (0)
大人になるとなぜ1年が短くなるのか?
子供のときって体の中ですごい速さで細胞が増え成長していて、年寄りになると代謝は鈍くなる。時間が短くかんじるのは、細胞レベルで一日にたくさんのことをこなす能力が落ちるため、という説。
スケジュールが効率的に組まれてて、こなすことが多かった一日は、そういえば長い。例えばパッケージツアーとか、2泊3日なのに、ずっと昔に家を出たみたいな気がするときがあるもん。そっか、一生を長く使うには、体力をつけて体の代謝率を上げればいいのか。
この本にはもうひとつ、がーん!とすることが書かれていた。
世の中には時間にいつも遅れる人と、時間を守る人の2通りの人に分けられるが、いつも時間に遅れる人ってのは、なんで時間に遅れるかというと、見積もりが甘いから。つまり「ここまでに着ける」という自分の能力を過大評価している人といえるという。反対に時間よりいつも早めに到着する人は自分の能力を過小評価しがちだと。うーん。ほんとうにそうだ。
よねは数年前まで、すごく時間にルーズな人だった。考えてみると、その頃は企業の名前に胡坐をかいた、鼻持ちならない自己評価過大女だったと思う。フリーになって、守ってくれるものがなくなった日から、すごく気をつけざるを得なくなった。
遅れて失うものって、過ぎちゃった実質的な数分間だけではない。最初からちゃんと始める側になってみるとわかる。
投稿者 midori : 10:38 am | コメント (0)
ユダヤ人大富豪の教え
「なりたい姿をイメージすること。そんなことできっこないと最初からあきらめるようでは、夢は決して実現しない」あたりまえのことだが、それはほんとにそうだ。同感。
ユダヤ人に教えられ、この本の筆者は「今の時点で実現していることは、たしかに数年前にこうなるといいなあと思ったことばかりだ。自分には願ったことを実現させる力があるんだ」と気がつく。
よねも、このくだりを読んだときに思わず今の自分の現状を確認した。
技術の学校でデザインを教える仕事のときは、生徒さんのモチベーションをキープしなくてはならない。この仕事中は「デザイナーって楽しいよー」ということを明るいトーンで話して、ネガティブな話題にはなるべく触れないように心がけている。ほんとはたいへんな仕事なんだけどね。生徒さんたちは、よねがデザインしかしたことがない、世渡り上手なんじゃないか?と勘違いしているかもしれない。しかしサラリーマン時代のよねは、サニーサイドだけを歩けたわけでは決してない。上司と衝突し、デザイナー以外の業務にまわされた大失敗の経験もある。
畑違いの部署では、商品データをテンキーで一日きっちり8時間、ノーミスで入力し続けなくてはならなかった。デザイン以外のデスクワークなんてしたことがなかったので、さいしょは間違ってばかりいた。でもなんとか、こなせるようになる。が、情けないことなんだが、我が心のダークサイドはどうにも処理できなかった。
自分の席が欲しくて、同僚を嫉妬したり、上司の失脚を毎日願った。自分を正当化する作戦を幾重にも張るうちに、誰も信頼できなくなる。ぐずぐずした自分の心がどうにもがまんできなくて、会社員廃業を決めた。
現在よねは毎日、クリエイティブ畑のすみっこで、なんとか人の役に立って生きている。すごいじゃん。
実は会社に就職した瞬間から、フリーランスにあこがれていた。デザイナーとして会社で働いている間ずっと、発注先からの請求書を経理にまわす伝票を書きながら、「いつか自分も、請求されるほうでなくて、請求する人になりたいなあ」と考えていたのだ。
悔しい経験をちょうどいい時期に得られなかったら、今もまだサラリーマンを続けていたと思う。ショックが手ぬるいものであったなら、一流会社のOLという社会的地位も収入も厚生年金も捨てて会社を飛び立つ気力は生まれなかっただろう。神さまの配慮に心から感謝せずにはいられない。
思ったことを実現するには、それに向かって行動しなくてはならない。そんなのはあったり前なんだが、それよりも前に、しなくてはならないことがある。どうなっていたいか、具体的な夢を見ること。夢を思い描けない人の夢は決して実現しない。ほんと、ユダヤ人の大富豪の言うとおりである。
投稿者 midori : 02:26 am | コメント (0)
西池袋と宝の島
「ワンピース」はいつもスポーツクラブのステアマスターのとこで会う、さとみちゃんに1回に5冊ずつお借りしている。
ある日さとみちゃんが、泣きながらステアマスターこいでた。赤い目の訳を聞いたら「みどりさん、わんぴーすってしってますか?何べん読んでも泣けるんです」とステアマスターのカウンター台に立てかけて運動しながら読書中だったコミックを教えてくれた。先週の木曜日からさとみちゃんの後を追って、大航海に出かける。この話、どうしても、TDLのカリブの海賊と「モンテ・クリスト伯」の世界と重なるんだなあ。いまうるうるしながら6巻目です。
石田衣良の「ウェストゲートパーク」は、もろ、どばた時代(浪人中に通った美術学校)に引き戻される。19のとき、よねは西池袋に住んでいた。一日のデッサンが終わると、タイルが張られる前の土の地面だったウェストゲートパークをぐるりと回って(当時は公園というより巨大な自転車置き場だった)、西武の美術館か、アールヴィヴァン(本屋)か、文芸座にいそいそ向かった。主人公のマコトが生まれる前の話だが、まあ、通りの名前や空気感は同じ。今だって、サンシャイン通りの三越の前に得意先が一軒あるし、池袋で飲み会とかの幹事になって、いい居酒屋を探して下見でときどきふらつく。そうか。あの通りはそんなスリリングなスポットであったか。土地感のある場所が舞台の物語をJRとか丸の内線の中で読んでると、どこまでが現実かわからなくなる。
マコトシリーズは全部読破。このシリーズは現在、スポーツクラブの奥様がたの間を巡回中。「アキバ@DEEP」に取りかかってる。マフィアもチンピラも出てこないが、よねにとってはもう、こっちのほうが身近でリアルで背筋ぞーっとする。はらはらしながら、本日真ん中あたり。
投稿者 midori : 11:18 am | コメント (0)
読書日記
仕事の帰り、渋谷のブックファーストに寄った。2階の今月のおすすめコーナーで平積みになっていたレイ・ブラッドベリの短編集とスー・グラフトンのシリーズ「獲物のQ」に手が伸びた。
女探偵、キンジー・ミルホーンのこのシリーズ、大好きなのだが、ひとつだけ欠点がある。ABC順にタイトルがついていて、順に発売されるにも関わらず、いつもどこまで買ったのかいつもわからなくなる。表紙を見てもどれが最新刊なのかわからない。同じ本を買ったことが何度かある。出だしを読み始めてしばらくして、物語の最後を知っていることに気がつくのだ。
念のため奥付を確認した。発行年月日が2006年1月15日となっている。今年になってからは、小説らしい小説を読んでいない。確かに持っていない本だ。グラフィックやwebのテキスト以外の本を開くのは久しぶり。
投稿者 midori : 02:10 am | コメント (0)
もっとも苦手なこと
↑製本工房リーブルと印刷屋帆風との往復のときに見つけた風の通り道。飯田橋のTOYOTAビルの脇の小道。
ほんじつはすごい雨降り。今、外はしんとしているけど、さっきまでひどい土砂降りであった。
たまった仕事を片付けるつもりが、財布の中の領収書の整とんと、かかった費用の請求書作りで、ほぼ一日が終わってしまった。
自分の仕事の値段を決めたり請求のお便りを書く。これが目下のところ、いちばん苦手な業務である。
やってしまおうと思ったすきに、すばやく書き終え送ってしまわないと、またたいへんなことになる。
無くしちゃった納品書をファックスしてもらったり、糊でいったんはった領収書を、びりびりはがしてコピーを取りにいったりと、手際が悪いことこの上なし。ほんと、書類処理能力ゼロだ。だいたい、電卓で検算するたびに数字が違うって、どういうこと?
ひとりでおやりになっている、かっちょいいクリエーターのみなさんも、こういうこと、ちまちま自分でされているのだろうか。それとも、ばーっと、スタイリッシュでダイナミックな請求書を一発書いて終わり!にしているのかな。
投稿者 midori : 05:45 pm | コメント (0)
危険のP
スー・グラフトンのキンジー・ミルホーン(カルフォルニアのサンタ・テレサという街で自営業の女私立探偵が主人公の推理小説。アガサ・クリスティーみたいにタイトルがABCに順にシリーズになっている)のファンだ。
先週の日曜日に、遅ればせながら最新刊を手にして読み始めた。
とにかく、このシリーズを読み始めると、やたらとジョギングをしたくなり、白ワインを飲みたくなる。一度なんか、香港に旅行に行ったとき、行きの飛行機で読んだら、むしょうに走りだしたい衝動に駆られ、ホテルについたとたん着替えて、いちゃついてる恋人だらけのハーバーをほんとにジョギングしちゃったくらいだ。
読んでいる最中は必ずといっていいほど、ワインを空ける。(本日は冷えた白なんか家になかったので、ほこりだらけの怪しい赤を発掘してきて一杯やってる)
"A"を読み始めたころ、わたしはたしかキンジーよりもずっと若かった。ずいぶん年上になってしまったが、あいかわらず、大人だなあ、と思って読んでいる。先に進むのがもったいない、と思って読む貴重なエンターテイメントである。
先週から今週にかけて小さな本を一冊作った。「Damdam Amsterdam ゼペットじいさん」というタイトルで、昔書いた文章をオランダに行ったときの写真に載せて編集した。昨日一日かけて、InDesignというソフトでデザインを組んで、今日キンコーズで出力してカッターシートを借りて裁断・製本し、青山のスパイラルマーケットに納品してきた。明日から6月15日(水)まで開催される「思い思いのかたちに綴る自費出版の本」展で売られてます。
投稿者 midori : 09:51 pm | コメント (0)
巌窟王
イタリアのエルバ島というところに、よねの友だちがお嫁にいった。「住所がわからなくなっても、「エルバ島ジャポネーゼ」と書けば私に届く」というくらい小さい島で、日本人はきっとその友だちしか住んでない。あっという間に友人は二人の女の子のマンマになった。
遊びにおいでよ、と誘われたのだが、なかなか行けない。だのでかわりに、図書館に行って「モンテ・クリスト伯」を借りた。
フランス革命で首切りにあったルイ17世の弟のルイ18世がフランスの王様になっている。その時代の話。ナポレオンとエルバ島が出てくる。
よねは、池田理代子のまんが「ベルサイユのばら」のおかげで、フランス革命にはちと詳しい。子供のときに何回も読み直しているので体の中で歴史がつながっている。が、その後のナポレオンの時代については、なにがどうなんだか、よーくはわかっていなかった。
美術とか建物を見るときに、知っていなければならない歴史の知識がどうもばらばらで、困っていたものだが、「モンテ・クリスト伯」のおかげで、100日政治とかワーテルローの戦いとか、ナポレオンが何回も流された理由がわかってきた。「ベルばらのつづきの歴史」が、なんか頭の中で繋がった。
ナポレオンが流されて、巻き返しの策を練っている場所が「エルバ島」だ。主人公の船乗りは、マルセイユへ船旅の帰り道、人のお使いでエルバ島に寄り道して、幽閉中のナポレオンに手紙を届けるところから物語は始まる。ナポレオンから別の人への手紙を預かってフランスに帰国する。この人は上司の命令で運んだだけなのだが、そのことが原因でつかまり、岩の牢獄の奥深くに閉じ込められることになる。
一巻目を読み終えた。物語にわくわくするのは久しぶり。19世紀のフランスを旅してる。今日は月曜日。残念ながら図書館は閉まっていて、続きが読めない。
投稿者 midori : 09:55 am | コメント (0)
耳鳴りの話
↑よねの母則子の福耳。市販のイヤリングの金具では挟めないほどの厚み。現在耳鳴りはないが、テレビの音量が上がっている。
「耳鳴りを治す コントロールしながらうまくつきあう/神崎仁著/慶応義塾大学出版会」を読んだ。
耳鳴りは脳の病気やリンパや腎臓疾患の前触れ、という場合もある。耳鳴りを検査して腎臓の病気がみつかることもある、というのが興味深い。検査で重大な病気が発見されない場合、だいたいは耳鳴りが原因で死ぬようなことはない。取ろうとしても取れないことが多い。老化現象の場合もある。耳の中の音を感じる器官にはいろんな液体が入っていて、その流れが音となって神経に伝わっているのだけど、そのちょいとした成分の変化がノイズとなって出るらしいのだ。(うーん。耳は坎!昔の人は偉い。開けて確かめたんだろうか?)
よねにも耳鳴りがある。会社でリストラに遭った時代、ロックのコンサートによく行ってた。すごい音量の会場から一人暮らしの部屋に戻ると、部屋の隅のどこかにコオロギとか鈴虫でも潜んでいるのか、と思うくらい、はっきりくっきり、音が鳴っているのに気がついた。その虫はどこに行ってもついてくる。一時は眠れないくらい不安になったが、そのうちに、もっと案じなくてはならないことがつぎつぎ起こって、気にしていられなくなった。よねの耳の虫は10匹ぐらいのコーラス隊で、今日も休みなく演奏つづけている。
治らない、と聞いて絶望することはない、と、神崎先生はおっしゃる。ストレスを減らして、耳鳴りに耳を澄ますことのない暮らしをすれば、うまく耳鳴りと共存することができる。音楽聞いたり、人と一緒に過ごして他の音を聞く時間を持って、気分を明るくすると、耳鳴りの体感音量は減るのだそうだ。
断易でいうと冲や剋より合、の疾患だよな。