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13 december 2007
君の後姿を見つめてきた
よねが出勤する平日の午前中11時台のJR成田総武快速の中。始発駅は成田空港、行き先は逗子。朝、空港に着いて入国したての外国人。それと帰国者が、旅の疲れでボーっとしているか、あるいは爆睡中の車内 with スーツケース。かすかに外国の街&空港の臭い。よねが住んでる辺りはある意味、毎朝、とっても世界に近い。
本日は自宅で作業の一日。生徒の作品のデータチェックを一気に終わらせた。提出されたCDと作品を60人分くらい見たら終日かかった。
生徒さんの作品を見るのは楽しい。わくわくしながらCDを開く。その生徒さんが40歳になったときを想像しながら作品を見ている。すごいきらめきと向き合っている。しかし、にこにこしているだけではいけない。基本を身につけていただく科目なので、印刷の作法は細かくチェックする。こじゅうとみたいに。
データも完璧に処理できている生徒は1クラスに数人。いったん習ったことを簡単に忘れるのは無理もないと思う。生徒さんたちは、毎日、学ぶことがありすぎる。
不備が一箇所でもある人は再提出となる。パーフェクトなんて、最初から求めていない。間違えるだろうなあ、と思っている。間違えたら、やり直せば、やり直した経験がその人の力になる。再提出を重ねて、生徒さんは腕を上げる。失敗を克服した経験は、体に染み付くと信じる。間違った生徒さん1人1人に宛ててどこが間違っているか、メモを書いた。
自分の大学時代を思い浮かべる。今、いちばん会って話をしたい先生は神田昭夫先生。会いたいなあ。長岡のデザインの大学で教鞭をとられていたが、亡くなってしまった。しかたないので、神田先生の著書を読む。神田先生のデザインの仕事を眺める。神田先生は授業のときに自分の著作を教科書に生徒に買わせなかったので、わたしは在学中、先生がどんな人なのかよくわかっていなかった。デザインの現場で仕事をするようになってから、神田先生の本と神田先生の仕事を買い集めるようになった。
大学時代、神田先生のデザインの授業で、何を作ったか、何を習ったのかを、ほんとうに恥ずかしい話なんだが、まったく思い出せない。しかし、自分でよくやった!と思う作品は捨てずにとってある。それを見ると、どんなふうに課題を出されていたかということと、合評会のとき友達が神田先生から注意を受けていた風景をとぎれとぎれにやっと思い出す。
今、自分が大学生に向けてしゃべっていることも、おそらく、現生徒様方の記憶には、きっと残していただけないだろうなあと思っている。今、しゃべったことで、少しでも現作品が良くなればいいと思う。その人にとってちょっといい作品が作れて、作った喜びがその人の記憶に引っかかれば上等だと思う。
言ってもしょうがないと思うので、体を動かさせる。手を強制的に働かせる。作品を残せば、後年データを見たときに、何をしたかをはっきり思い出すだろうし、手は脳より信頼おける。とっさのときに、なにか行動できればいい。デザインの授業なんだが、スポーツ実習みたいである。
デザインの勉強には、理論も精神論も大切、だけど、いちばん必要なのは、手の中で出来上がった「現物」なんである。
投稿者 midori : 01:14 am | コメント (0)
05 december 2007
メイドのしぐさにどきどきする
国立新美術館の「フェルメールの牛乳を注ぐ女とオランダ風俗画展」、やっと見てきました。ちなみに、この牛乳を注いでいる絵の女の人は、この家のお母さんではなくて、メイドさんです。この会場で遠近法の解説を読んであることに気がついた。よねの目は、メイドさんよりも牛乳にとらわれてしまっている。またろくでもない妄想が止まらない。 フェルメール、って書くと、「スプリング」とか「ドリーム」とか「ファンタズィー」のようにきれいな響きのすてきな苗字に思えるけど、オランダ語で「Ver meer」って発音は、「Ver」の部分を添えもののように小さく弱く発音する。「ふぁ」は、最初ほとんど聞き取れず、後半の「meer」をおもいっきり強く、つぶれた「い」の口で「みぃぃぃや!」と言う。
10年ほど前、ハーグのマウリッツハイスでの20枚一挙フェルメール展を見に行ったことがある。チケット売り場で、オランダ語の「Vermeer」を聞いた時は衝撃だった。「ミーヤってなんだ?」間違った展覧会を見に、わざわざオランダまできてしまったのかと思った。
この響きが基になってよねの中のフェルメール像は構築されている。聖人みたいな高貴な神さま的大画家でなく、オランダのふつうの職人のおっさん、あるいは現代のデザイナーに近い、「見る」という行為に対抗していろんな試みを仕掛けて、悩みながら一枚一枚に入魂していくクリエーターのイメージ。
「真珠の耳飾り」の前でも、「純真な少女の美しさ」ではなく、つい先に「エロさ」を感じてしまった。申し訳ありません。全国のフェルメールファンのみなさん。みなさまのフェルメールさまに向かって、こんな感想を抱いてしまって。言葉も悪かったです。「艶っぽさ」に改めます。
見てはいけないのに目がいってしまう、恥ずかしさを秘めた「どきどき」が、「きれい」をほんのちょっと押しのけている、とよねは思った。「お伝えしたいんだけど、奥様や子どもさんの前では言えません。ここではこういう風にしておきますけど、お察してください、私の気持ち」みたいな、「隠れた微妙な裏意味」がきっとあるのだろうと、一目見て感じた。きれいなお化粧や衣装を突き抜けて、生活臭や体臭までもが伝わってしまう、抜群の描写力。暗号の意味は良くわからないけど、裏の意図の予感がぴしぴし伝わってくる。すごいきれいなだけに、汗の臭いがショック!みたいな、ギャップのもたらすはらはらがどの絵にも備わっていると感じた。
「牛乳を注ぐ女」は、美術の教科書にも載ったりして緻密な遠近法と画面構成の手本みたいに言われている絵なのだけど、見る角度によっては、ものすごいことが描かれている、ものすごく人間的な絵ではないかと思うのだ。
小林賴子さんの「牛乳を注ぐ女 画家フェルメールの誕生」を読んで、その疑いをますます深めた。だって、17世紀の絵画では「お手伝い」といったら、当時の「悪徳」を象徴的に表すときにしばしば登場したというし、「壷」は女性の体の部分の象徴だというし。「乳搾り」も男女間のとある行為を揶揄するって、そう言われたらねえ。ミルクそのものを描いた絵はあまり存在しないそうだが、そう聞けば聞くほど、フェルメールが「牛乳」をわざわざねらって絵の中に持ち込んだのではないか、と疑ってしまう。
もっとも小林女史はエロス否定派である。
「お手伝いの女であるが、彼女は見事に家庭の美徳の体現者となりおおせている」
このメイドと同じ中年を過ぎた女であるよねの感動した訳はこうだ。
真っ黒な壷の内部と光り輝くミルクの白の対比に目が捕まる。壷もミルクもパンも人間のDNAを繋ぐ生命の行為とパーツの象徴。それを静かに真剣に壷から皿へ伝えている中年女。人間界で究極の「女性の勤め」が描かれているのかも。美しく、敬虔に。
ね、どきどきするでしょ。
投稿者 midori : 12:07 pm | コメント (0)
「数学に感動する脳をつくる」に感動する
2007年のベストカフェは、スタバでもエクセルシオールでもなく、南船橋のIKEA。パソコンしょって海回り(総武線を使わず京葉線)で寄り道。家具売り場はスルーして直接カフェへ。混んでてもたいてい空いてる隅っこの席でコーディングに集中する。お腹が空いたら、ついでにスウィディッシュフード。 数学が得意な子どもには共通の履歴があるという。「5歳~小学校低学年の間に公文式をやっていて、高学年にはやめている経験」。公文式の低学年バーションを学習した子は暗算が得意で、問題用紙にあれこれ書き込みをしないで問題を解くことができる。頭の中で、いろんな検証を済ませてから、やがて少しだけ、書き込みをする。問題が解けない子の問題用紙はすごく汚いんだって。
将棋のプロも対局の先の先が、頭の中で映像として見えているという。
ねえねえ、これって、デザインも同じじゃない?。初心者ほど、何かものを作る課題が出てすぐに、Illustratorを開きたがる。よね自身も、なにやっていいかわからないときほど、コンピューターを先に広げ、ぼーっといじっている時間が長い。作業がうまくいくとき、Illustratorを立ち上げるタイミングは仕事の最後の最後。頭の中に完成の絵がかかっていて、手を動かしての確認作業に使うだけって感じなんだ。
数を感覚で感じる力。絶対音感みたいな「数感」とでもいう力は、問題を解くのに失敗し、その失敗ととことんまでつきあって、あれこれ検証したうちから正解をやっと見つける、という「失敗克服の体験」を数多く乗り越えないと身につかない。安易に正解を調べて、問題の解き方の表面的なテクニックだけを習ってきた子はいずれ、難しい問題が解けなくなる、と、「数学に感動する脳をつくる」の作者は書いている。
「個々の事項はわかったが、他の事項とのつながりが構造化されていない段階では、わかったような気がしない、という慎重な子がいるが、納得しないと先に進めない子だなどといわれて、取り残されたりする。しかし、こういう子ほど実は数学が得意になる可能性をいちばん秘めている」
「最初に問題を解こうと試みて、そのやり方がうまくいかなかったときに、なぜだめだったかを徹底的に考え、反省して別のやりかたを考えてみる、そういった経験の蓄積」こそがほんとうの数学の力だという。
じーん。そして追い討ちの名フレーズ。
「教師がやるべきことは、自分が失敗したときの体験談を語ること。失敗を成功の元にするモデルを提示できる教師は最高の教師」。
むー。がんばるぞ。
投稿者 midori : 11:52 am | コメント (0)
02 december 2007
「数学に感動する頭をつくる」とデザイン
やんでお。いーや、昔の看板は右から読むのだ。2007年ベスト行楽地は成田山。その参道は、ほっつきあるきにぴったりな近所の名所。 目にしたときに、脳の奥がふるふると震え喜ぶ、きもちいい線や色、手触りの組み合わせがある。目で見て触れて、心地よいものはグラフィックに限らず、いいデザインだなあと思う。自分でデザインをするときは、脳の奥の喜ぶ感じと相談しながら、気持ちいいものを作ってるつもりだ。この脳の奥が震える感じを、どうしたら人にわかってもらえるのだろう?人に教えるようになってずっと考えていた。
きれいな形や物って、形自体だったり、組み合わせの微妙だったり、ちょっとした隙間や瞬間だったり、思い過ごしか?と思えるような微かさだったり。だので、言葉ではたいへん定義しにくい。そういうきれいなもののきれいな部分を指して「きれいでしょ」って言っても、生徒さんに果たして「きれい」と思ってもらっているのかなあ。伝わらない人にどう伝えてよいのか?
自分自身も、「きれいって、こういうものか」ということがわかるようになったのは、仕事をするようになってしばらくたってからだった。大学の先生に教えてもらったのではないと思う。かっこいいデザインをしようと、いろんなことを試しているころにだんだんに身についてきたもの。だので、もともと持ってなくても後から身につけることができるものなんだと思うけど。
「かっこいい」のうち、時間的にいけてるものを選ぶ力や基本的なフォーマットなんかは、流行のものをインプットするとか、人の作ったものをそっくり真似するということでだれにでもある程度身につけることはできると思う。しかし、この脳みそを振るわせる感じを、だれもが作ることができるかどうか、ってことは謎。どんなデザインの教科書にもどの先生の本にも書いていない。言葉にもしにくい。
デザインは経てきた体験が物を言うと思ってきた。美しいものを目や手でなんどもなぞり、カーブや広さや色の組み合わせに体を泳がせ、気持ちをゆだね、美しいものと呼吸を合わせる、そういう体験があるかどうか。そこがデザイン力あるなしの決定的な違いになるのでは?。うすうす考えていたことが、「数学に感動する頭をつくる」を読んで確信に変わってしまった。脳の奥のほうの反応というか理解という意味と、深みに段階がある点で、デザインは数学とはぜんぜん違うが、通じる点がある。
とにかく、たいへんな本に出会ってしまった。(また次回に続く)
投稿者 midori : 12:19 pm | コメント (0)
01 december 2007
数学に感動する頭をつくる
2007年のベストくつろぎ空間。特急電車「あやめ」の自由席。いつもタイミングが合うわけではないが、ちょうど来れば、乗ってもよいことにしている。特急料金はスタバでケーキを食べたと思って。東京と千葉間をおよそ30分とショートカット。予定を確認し直したり、デザインを考えたり。お茶を飲んだり。時間を節約しながら楽しく、くつろぐ。 今年、秋ごろに不思議な体験をした。パズルで「数独」というのがある。あれにはまったのだ。まるで、わからなかったのに、あるとき、すーっと、当てはまる数字がわかる瞬間がきたのだ。一つが決まると、どんどんほかもわかる。脳みその奥が「気持ちいー」とうなったのを感じた。
取り付かれたように、パズルが止まらなくなり、50問くらいを一気に解いた。仕事そっちのけで。パズルは難易度が上ると、またもとのように、「わからんちん」になったが、「わからないものがわかるようになる」「見えなかったものが見えるようになる」「聞こえなかったものが聞こえるようになる」という、「進化の喜び」を何年ぶりかで味わった。
「これって、デザインが決まるときとおんなじ快感じゃん」。よねの脳みそがこう言った。
「数学に感動する頭を作る」の著者は「音感と同じように、数学が得意な人には数感とでもいうべき感覚が備わっている」と言う。
「数感」は成長する段階で、数という認識をイメージに置き換えるトレーニングを積んだ子どもにしか身につかない。例えば、そろばんや公文式を小学校の低学年に叩き込まれた人は、数学のセンスが抜群にいい。暗算ができて数や量を頭の中で自由に動かす技が身につく。数を頭の中にイメージで思い浮かべられ、動かせる子どもとそうでない子の「わかった」は、問題を同じように解けてはいても、理解の深さが違うという。
よねは数学が高1の段階でまったくわからなくなった。数学、という単語はよけて歩いてきた人間である。だのに、つりこまれるように読んでしまったのには訳がある。デザインを教えていて、実は同じようなことを感じることがあったからだ。
色とか形に対して、「ここの形がきれいでしょう?」と指すと、たいていの生徒さんは「はい」と、こちらの話にあわせてくださる。デザインの勉強は、形や色修正して、前のと見比べ、良くなったかどうか確かめながら、完成度をあげていくということを根気よく繰り返す。同じことを全員に言うのだが、50人に1人くらいの割合で、すごい人がときどきいる。ちょっと動かした文字の空きとか、絵の配置を変えるだけで、2Dだった空間にばーっと奥行きが生まれる。そのちょうどいい場所を瞬時に見つけてしまう子が、たまにいる。その子にあって普通の子のにはないものってなんだろう?
かっこいいパーツを作れるとか、絵がうまい、ということも、デザインの大切な能力。でも、これは、流行のものを大量にインプットするとか、人のものを真似ることでなんとか一般人でも補える。でも、じつは、もっと必要なものがあるんじゃないかと思っていたのだ。(次回につづく)