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メイドのしぐさにどきどきする

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国立新美術館の「フェルメールの牛乳を注ぐ女とオランダ風俗画展」、やっと見てきました。ちなみに、この牛乳を注いでいる絵の女の人は、この家のお母さんではなくて、メイドさんです。この会場で遠近法の解説を読んであることに気がついた。よねの目は、メイドさんよりも牛乳にとらわれてしまっている。またろくでもない妄想が止まらない。 フェルメール、って書くと、「スプリング」とか「ドリーム」とか「ファンタズィー」のようにきれいな響きのすてきな苗字に思えるけど、オランダ語で「Ver meer」って発音は、「Ver」の部分を添えもののように小さく弱く発音する。「ふぁ」は、最初ほとんど聞き取れず、後半の「meer」をおもいっきり強く、つぶれた「い」の口で「みぃぃぃや!」と言う。
 10年ほど前、ハーグのマウリッツハイスでの20枚一挙フェルメール展を見に行ったことがある。チケット売り場で、オランダ語の「Vermeer」を聞いた時は衝撃だった。「ミーヤってなんだ?」間違った展覧会を見に、わざわざオランダまできてしまったのかと思った。
 この響きが基になってよねの中のフェルメール像は構築されている。聖人みたいな高貴な神さま的大画家でなく、オランダのふつうの職人のおっさん、あるいは現代のデザイナーに近い、「見る」という行為に対抗していろんな試みを仕掛けて、悩みながら一枚一枚に入魂していくクリエーターのイメージ。

 「真珠の耳飾り」の前でも、「純真な少女の美しさ」ではなく、つい先に「エロさ」を感じてしまった。申し訳ありません。全国のフェルメールファンのみなさん。みなさまのフェルメールさまに向かって、こんな感想を抱いてしまって。言葉も悪かったです。「艶っぽさ」に改めます。
 見てはいけないのに目がいってしまう、恥ずかしさを秘めた「どきどき」が、「きれい」をほんのちょっと押しのけている、とよねは思った。「お伝えしたいんだけど、奥様や子どもさんの前では言えません。ここではこういう風にしておきますけど、お察してください、私の気持ち」みたいな、「隠れた微妙な裏意味」がきっとあるのだろうと、一目見て感じた。きれいなお化粧や衣装を突き抜けて、生活臭や体臭までもが伝わってしまう、抜群の描写力。暗号の意味は良くわからないけど、裏の意図の予感がぴしぴし伝わってくる。すごいきれいなだけに、汗の臭いがショック!みたいな、ギャップのもたらすはらはらがどの絵にも備わっていると感じた。
 
 「牛乳を注ぐ女」は、美術の教科書にも載ったりして緻密な遠近法と画面構成の手本みたいに言われている絵なのだけど、見る角度によっては、ものすごいことが描かれている、ものすごく人間的な絵ではないかと思うのだ。
 小林賴子さんの「牛乳を注ぐ女 画家フェルメールの誕生」を読んで、その疑いをますます深めた。だって、17世紀の絵画では「お手伝い」といったら、当時の「悪徳」を象徴的に表すときにしばしば登場したというし、「壷」は女性の体の部分の象徴だというし。「乳搾り」も男女間のとある行為を揶揄するって、そう言われたらねえ。ミルクそのものを描いた絵はあまり存在しないそうだが、そう聞けば聞くほど、フェルメールが「牛乳」をわざわざねらって絵の中に持ち込んだのではないか、と疑ってしまう。
 もっとも小林女史はエロス否定派である。
 「お手伝いの女であるが、彼女は見事に家庭の美徳の体現者となりおおせている」

 このメイドと同じ中年を過ぎた女であるよねの感動した訳はこうだ。
 真っ黒な壷の内部と光り輝くミルクの白の対比に目が捕まる。壷もミルクもパンも人間のDNAを繋ぐ生命の行為とパーツの象徴。それを静かに真剣に壷から皿へ伝えている中年女。人間界で究極の「女性の勤め」が描かれているのかも。美しく、敬虔に。
 ね、どきどきするでしょ。