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22 juni 2008
偶然の意味
ものすごくいい香りが3日3晩続いた。萩尾望都の漫画の中にいるみたいな心地、流れる空気だけ6月のイギリスの田舎の貴族の別荘だ。ばらは種類によって、匂いがぜんぜん違うということを知った。
誕生日、仕事を終えて遅い時間に家に帰ると、お得意先から郵便が届いていた。封を開けてみると、映画のチケットが2枚。誕生日をねらって送ってくださったわけではない。ある1件をお手伝いをした御礼、と手紙が添えられていた。誕生日のことをだれにも話すチャンスのない、地味で普通の1日だったので、うれしいサプライズ!。
よい気持ちで眠りについたら、翌日の朝、宅急便が届く。1メートルくらいの長い箱に入ったばらの花束!。家族は「よねにも誕生日に花束をくれる彼が出現!」と、色めきだった。が、送り主は、クライアントの一つである花屋さん。開きすぎて商品に使えなくなったバラを花束にして、サイトのお手入れのお代につけてお送りくださったのだ。小さなホームページを納めたのは5年も前。現在も花屋さんの売り上げに貢献中だという。先方の気持ちが伝わってきた。
よねはこの6月で45歳になった。一般の人より20年早く40のときにサラリーマンを自主リタイヤーしたので、生まれ変わってからの計算がしやすい。学校の先生の生活は4年目に入った。デザインの先生はサラリーマンのときから、「デザイン業と平行して、教えたいなあ」と、ねらっていた仕事だ。先生はなってみると楽しくて、勉強することもするべきことも山ほどあり、夢中で1年が過ぎる、という毎日。
しかし、デザイン業の南風堂的に考えると、ちっぽけすぎることについて、「こんなんでいいのかなあ?」という迷いがなくもなかった。時間の制約があまりない小さな規模の仕事をこつこつ積み上げていくので精一杯なんである。とろ火状態が、このところ続いてて、ペースが上がらない。
そこにこういううれしい偶然が起こったのであった。
お得意先から、1年でいちばん、何かをいただくとうれしい日に贈り物をいただくことになった。送り主はちっとも誕生日のつもりではなかったのに。
よいことや、うれしい知らせが、グッドタイミングでカチッと、同じ瞬間に起きることを「ただの偶然」と受け流すこともできる。でもよねは、偶然に意味を見る。偶然が重なったことも合わせて、45歳時点のキューサインと読んだ。
ずっとわかりたかったことの答えがわかって、目の前が明るくなる。
「これでいーのだー」(なぜなのか、よねの天の声は、天才バカボンのパパの声)。
あまり先のことを心配するんじゃなく、ご縁を着実に受け止め、受けた仕事はなるべく誠意をこめて納める。現在のよねにはそれで十分なんじゃないか。
よねが仕事を選んでいた時代に夢見ていたように、仕事のほうが、よねを選んで来てくれているようになれたのではないか? だとしたら世界一の幸せものだ。よねは。十分準備を整え、来てくれた仕事にはベストのコンディションで向かえばいい。これからだって、同じようにしていけばいいんじゃないか。
天と仕事と自分とのつながりを感じた45歳のバースデーであった。
投稿者 midori : 12:55 am | コメント (0)
09 juni 2008
巡礼の道
JRの最寄り駅のホーム沿いの壁。先週まですごくいいグラフティーがあったのに。「柔らか戦車」の似顔絵だった(おそらく)。今日こそ写真撮ろう!とデジカメ持って家を出たのに。みごと上書き、お掃除済み。残念。こういうのって、まめに撮っておかなきゃだめね。反省。
「巡礼」っていうキーワードに強く引き付けられてて、この2週間くらい、ものすごい憧れ中。NHK総合テレビの「世界ふれあい街歩き」で、先月放映された「巡礼の道」シリーズがとても心に残った。なんども思い出すうちに、すっかりとりつかれています。
番組に出てきたのは、スペインの「サンティアゴ・デ・コンポステラ」という街。フランス国境から歩き始めると平均25日かかるそうです。およそ800キロの道のりを、毎日ひたすら歩く。
サンティアゴ・デ・コンポステラまで、無事フィニッシュできたいろんな国の人たちが、大聖堂でミサをするシーンを見てたら、うるっときた。このミサはどんな国の人でも、キリスト教でない人でも参加できるそうなのだけど、名物の巨大な香炉をぶんまわす儀式がすごい。小学生が入れそうなくらいな重そうな丸い入れ物からから煙がもうもうと発生しつつあるものを、高い教会の天井から吊り下げて、教会の大男が10人くらいがかりで縄を引っ張り、サーカスの空中ブランコのように教会のお堂の中をぶんぶん振り回すというもの。
「昔の巡礼の人はお風呂にも入れなかったので臭いを消すためでした」というアナウンスが中島朋子の声で入った。
超、変わったシーンだったのだが、よねの心ははテレビの中の巡礼者の一人に飛び移ってしまった。切なさプラス暖かさプラス寂しさみたいな複雑な気持ちが湧いてきて、いっしょにお祈りをしたのであった。
そんな文を書こうと思い返していたら、先週「怖い絵」(中野京子・著 朝日出版社)という名画にまつわる裏話を集めた本の中で、グリューネヴァルト作「イーゼンハイムの祭壇画」という絵のエピソードと出会った。
この絵のあるフランスのストラスブールの聖アントニウス修道会も「巡礼」地の一つ。巡礼の終点の教会にましますこの祭壇画の中央には、貼り付けになったキリストが描かれているのだが、描写がやたらリアルで怖い。貴族やお金持ちの人の目を楽しませるためでなく、病気や悩みに苦しむ一般市民の癒しために依頼された絵だという。むごたらしく痛々しい面は実は蓋で、扉になっており、開くと、中からは輝くような美しいシーンが現れる仕掛けになっている、という解説を読んだ。いつもは怖い絵になっていて、日曜日になると扉が開かれ、おめでたいほうの絵が見られるんだって。(引用のGoogleからの画像はおめでたい面。下部の台座の部分に、怖いバージョンの片鱗が…。行き倒れた巡礼そっくりに表現されてるキリスト)
中世、ペストやハンセン病などの疫病は当時、原因なんかわからないから、「ばちが当たった」、あるいは「悪魔の仕業」とか誤解された。患者は住む場所を追われた。どんどん体は動かなくなり朽ちていく。痛い身を引きずって、放浪するしかなかった。どこへ?天国へ。聖地へ。
「巡礼」は、そういう人たちの唯一の救いであった。
運と体力があって、終点までたどり着いた人の中には、修道士たちが薬草を煎じてくれたり、信仰による慰めを与えてくれたり、救われるケースもあっただろう。でも、手や足が病によってだんだんに腐っていく不治の疫病患者にとって、「巡礼」に行くことは、事実上途中で死ぬことと同じだった。
このくだりを読んだよねの目の奥に、テレビで見たあの「巨大な香炉を振り回す」シーンがよみがえった。と、ともに、ひどい傷がどろどろに膿んで、汁がたれた人々がひしめく大聖堂が思い浮かぶ。「香炉」の必要性を衝撃的にリアルに理解した。
「巡礼」の道が、なんであれほどまでに悲しく美しく、なんでむやみにやたら遠いのか、その切ないわけもわかった。行き場のない人のため、やすやすとたどりつけないように、だ。二度とふるさとへは引き返せないように。死への旅だったから。
投稿者 midori : 02:18 pm | コメント (0)
04 juni 2008
長い旅路
JR船橋駅に隣接したデパートのうちの一つ、最上階のレストラン街のトンカツ屋は、旅はしたいが、そんな時間のない人に超穴場。眺め最高。大きな窓からは東京方面の空が一望。眼下にはJRと私鉄2社の線路が交差する。いつでも視界のどこかになにかの電車が通っていて、ジオラマをみているよう。じゃっかん、「鉄」入っているよねは、もーごきげん。
本日は一歩も外へ出ず。ここのところ新学期も走り出して、ちょっと疲れぎみだった。月、水をおとなしく家で過ごした。音楽を聴いて、ちょっと部屋を片付けて、3食ちゃんと家で料理したのを食べる。
久しく会っていない知り合いの声が聞きたくなる。へんな時間なのに電話応じてくださった数人に感謝。久しぶりに長電話。楽しかった。
よねにはいろんな世代の友人がいる。歳が上のグループは、定年退職時代に突入。いったん会社員を卒業という世代。これからは好きなことを、というスローライフを楽しんでいる。この世代と話すと、とても癒される。
年下のチームは働き盛り。今、がんばらなくてどうする!という、まさに両手ぶん回しで泳いでいる最中。いろんな仕掛けを打ち、いろんなことを試している。男の子も女の子も夢中で失敗しまくり、立ち上がり、ヒットを打ち、進む進む!。よねの友人たちはみんな、かっこいいなあ。
人ごとのように相づちうっているが、ほんとは関心している場合じゃないのだ。本来よねもまだ、こっち側でひと働きもふた働きもしなきゃなんないになあ。
10ぐらい歳の違う友人とじーっくり語って発見。明らかに35歳のころと今と、欲しいものや見ているものが違うなあ。鈍くなったのか?。前はもっと、うらやましがりーだったんだけど。変わったなあ自分。これが年取るってことなのかしら。
仕事や職業は自分の努力だけでゲットできるものではないとも思う。努力は必要だけど、がんばるだけで仕事は得られるものではない。道がなんらかの妨害に遭ったり塞がれることもあるだろうが、それは、自分のやり方では信頼を得られなかったということへのアンサーなんじゃないか。
いつ、どの仕事にでも、「しどき」というものもあると思う。「永遠」に続けられる仕事なんてものはない。スポーツ選手と同じ覚悟でいる。いつ終わっても悔いがないように、それに向き合っている間は命をかけて、打ち込もう、と思ってはいるが。
毎日の日々じたいが、バックパックを背負ったあてのない旅みたいだ。食べられなくなる恐怖と、背中合わせの長い旅、落ち着いていこう。
投稿者 midori : 10:26 pm | コメント (0)
02 juni 2008
緑のランプ
「automatic」っていう歌があったね。メロディーは切ないんだけど、歌詞は温かな遠距離恋愛の歌。どんなにつるっとしたものにでも心をのせて、触りごこち良くしてしまう、人は不思議な生き物。
GMailっていう、インターネットのホームページ上でメールをやり取りできる仕組みを愛用してます。よねはパソコンを複数台使用しているし、いろんな場所からメールを確認しなくてはならない日もあるので、ネットの繋がる場所でならどこでもメールを送受信できるウェブ上のメールサービス(GMailの他にもHotmailとか、Yahoo Mailとか、いろいろあります)のほうが、PC側にインストールされたメーラー(Microsoftの"Outlook"とか、Macの"Mail"などのソフト)よりも都合がいいのです。
よねが使っているサービスは、こちら宛にメールをくれたことのある人のアドレスがぜんぶ登録されて、リストとなり一覧が画面の端に表示されるのだけど、同じGMailのアカウント(メールアドレス)を持っている相手に対しては特別な機能が働きます。ログオンしているときに緑のランプがともります。今、緑色の○がついている人は、PCの前でインターネットを繋ぎ、メールの画面を開いている状態なんだということが確認できるしかけ。グーグルのチャットですぐに会話ができるよ、という目印です。
早朝とか、深夜とか、シーンとしている時間にサイトを開いて、友人や生徒の名前の頭に緑の「ポチッ」がついていると、「あー、この人もまだ起きているんだなあ」とか「徹夜かなあ」とか「がんばっているんだなあ」思って、こちらも気合いが入ります。よねのリストには出張や留学で、今日本にいない人も載っているんだけど、その名前の前に、緑の「ポチッ」がともると、遠い外国にいる人なのに、まるで隣の部屋にいるみたいに、その人の気配を感じます。「おお、今、忙しいんだね」とか、「むこうは朝になったんだなあ」とか。すごい離れているのに、それからぜったい、すぐには会えないのにね。SF小説で、離れていても相手の思うことがなぜかわかっちゃうテレパシーってあるじゃない。いわば、あんなふうな、不思議な感覚。
ちなみにさっき、だーっとついていたみんなの緑のランプが、ぽつ、ぽつ、ぽつ、と続けざまにオレンジ色に変わって、おかげで「あ、もう、お昼を作んなきゃ」と気がつきました。オレンジ色はメールの画面をお休みにした印。「あ、お昼休みかあ」と、わかります。