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人生に「たまたま」ってのはないと思う
友人スソアキコさんの個展のもよう。縄文の土器にインスパイアされたクリエイティブは雑誌「ku:nel」に収録されてる。「作品を作り続けながら生きるHappy」のすてきなお手本です。
「したくもない結婚をするのは、あんまり気のすすまない会社に就職するのと似ていると思う」
よねには60〜70代の友人がけっこうたくさんいて、かなりの割合の人が「“しなさい”といわれて、いやいや結婚した」と発言していることを前回書いた。
そうか。例えば、よねは今大学4年生で、就職が決まらなくて「どうしよう」と思っているとしよう。すごく入りたいわけではないが、とりあえず4月から給料をくれるといく広告会社から内定が出た。もしそうだったら、天を信頼して、えいやあっと広告会社での新生活に飛び込むしかない。「永久」就職だとドロップアウトは許されない感は強いが、よねのジャンプとマダムたちが結婚を決めた瞬間の状況は、そう変わらないのだ。きっと。
やがて子供を持つと、したいとかしたくないとかではなく毎日の必要に迫られて子育てに没頭し、子供を大きくして親を見送り(人によっては夫も見送り)、やっと自分の時間と金銭的な余裕が持てたマダムたちからすれば、よねは「もしも結婚しなかった場合の自分の姿」に見えるのかもしれない。
ちょっぴりの妬ましさと哀れみ成分を同時に含めたマダム達の発言は重なる。
「今の人も大変よね」
こういう瞬間がいちばん「ぐらっ」とくる。
それほど強く望まなかったので結婚も子供も無しなのだと思う。
突っ張って生きたわけでも意地を張ったわけでもなく、ただただ、「ちゃんとした大人になりたかった」だけだ。進んだ方向に一所懸命に前進してきた結果が今の自分だ。
進まなくてはそこがどういうところなのか、わからなかったし、これから先だってどういうところに出るのかわからない。人からみたらとんでもない道を通っているように見えるかもしれない。でも、通ってこなかった他の道と大変さを比較することはできない。
ただ、ひとつ感じる。よねの通ったあとの足跡をたどって、その後の世代の何人かが後をついてきちゃっている。これは重大なことだ。
「ここまでは、へへん、体力いるけど楽しかったよ。大丈夫」ってことは言える。このあとはどうなるか、じつはよねにもわからないのだが、「多分、こっちで良かったんじゃない?」では済まされない。確実に、一生幸せに暮らすこと。難しいことではあるが、これはよねにとって「子育て」と同じ意味があるのではないかと考える。
にこにこしながら、途中で滑らないように慎重に前に進む。迷わないように用心深く道筋をつけながら、行けるところまでなるべく行って、暮らしの場を確保する。なんだかあやしい探検隊みたいだが、それがわがはいの使命だという気がしてきた。
天から与えられた眺めを楽しんで進もう。