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雨ニモマケズ
母校の前を歩く機会があった。高校の前の道はプラタナス並木になっている、靴の下で落ち葉が「しゃくっ」っと音を立てた。その感覚で、高校生活のいろんな気分がどっと呼び起こされた。どうしたものかやたら考えこむことが多かった青み帯びた薄い灰色の時代。今はいとおしい。
宮沢賢治の詩を絵本にしている。この連休、試作を作り始めた。
雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち。
うちの台所と居間を区切るカウンターに、この詩を染め抜いた暖簾がかかっていて、よねは毎朝、洗った茶碗を拭きながら、「こういう人にわたしもなりたいなあ」と、思っている。
絵本の場面をスケッチしだしてみると、詩の舞台は静かな東北地方の村ではなくなってしまった。絵本はよねが旅をしていて、居ついてしまったどこかの街という設定に生まれ変わった。このコンテに沿って絵を始めると、どこにもない「雨にもまけず」。
詩を繰り返し読み込んでみる。賢治に対して親しみがぐっとわいてきた。詩に描かれた人物像は賢治の「なりたいなあ」という「目標」をつづったものなのだと仮定すると、この頃賢治が立ち向かっていた生活は詩に書いてある理想とは反対の状態にあったのだろう。
雨にしくしく痛み、風が吹けば吹き飛ばされそうな自分。丈夫でない体の不安を抱えており、強欲で怒ってばかりいて、感情をコントロールできなくなっちゃっている状態。
そう考えると、「1日に玄米四合と味噌と少しの野菜」に憧れる作者は、「収入への不安もあったのだなあ」と妄想が進む。
「小さな萱ぶきの小屋の一人暮らし」に憧れるってことは、独りになれない、あるいは自立しきれないことへのいらいらを味わっていたのではないか?
病気の子供がいるのに、力になれない悲しみ。老いた親になにもしてやれない情けなさ。よねが自分の老後に対して恐れているのと同じレベルの不安や悩みを、賢治も持って暮らしていたのかもなあ。スケッチしながらそんなふうに考えが及んだ。
若い頃、賢治の実家に仕事の都合で関わったことのある父にこの考えを言ってみると、「宮沢家はすごい裕福な家で生活に困るなんてありえない」と一蹴された。けど、Wikipediaで「雨ニモマケズ」を引いてみると、「東北砕石工場の嘱託を務めていた賢治が壁材のセールスに上京して再び病に倒れ、花巻の実家に戻って闘病中だった1931年(昭和6年)秋に使用していた黒い手帳に記されていたものである。」とあった。
賢治を自分よりずっと大人だと思っていた。これを書いた頃の賢治は「公務員を辞めて農場を経営し始めたが甘くなく、いったん就職し、東京で一人暮らしをしている途中に体を壊して実家に帰っている30代半ば」だったのか。
詩の文章の文字組みをしながら、もう一度詩の文章をたどってみると、ちょっと失敗しちゃったさなか、目指そうとする場所をしっかり確認しようと、かすんだ目を必死にこすって前を見ようとする様子がくっきり伝わってくる。