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モノに命を感じてしまう件(千葉市美術館浅川伯教、巧展その2)
昨日の焼き物の展覧会投稿のつづきっす。きれいな形を見ることにより、ゆううつ解消。もーぜんとスウィッチが入ったなり。
李朝の壷は日本のやきものと違って、表面がでこぼこしていない、滑らかな白っぽい、だけど完璧なまっしろじゃない豆乳みたいな色の焼き物です。
毎日の生活用品として実際に使用されていたものだから、日々の生活の用に耐えうるためのとっぷりした厚みと機能用のきれいな形がある。美術品として作られたんじゃないので、表面に繊細な加工を施したというものにはない優しさと心配りがある。
形じたいに命ぢからがあるとでもいいましょうか。
つくづく、こういう生命力がたりないから悩むのだなあ〜と思った。
立っているだけ、いるだけで安心する美。存在じたいがきれいなもの。
これは、彫刻でも建築でも紙でも、それから人でもおなじだね。表面的飾りよりもっと奥底のきれいさだ。
なんていうのかなー。壷でもなんでもそのもの自体が息をしている感じ。それも眠っている動物みたいな静かで力強い呼吸。しているわけないんだけど、完璧なシンメトリーじゃなくてかすかに歪んでいるので、視点が揺らぐと、物も微かに揺れたみたいな錯覚が起きるんだよねー。
この美を別の分類の言葉でいうと「安心」とか「安定」とか「楽しさ」が値すると思う。
この壷たちは、生きて行くことを感謝して喜んで、人のためになるモノを作ろうとした力つよい人たちの手で、土を堀り、磨き、こねられて、形がとられて、削られて、焼かれて、絵がつけられて、それから出来上がりが使われて、残って、選ばれて、大切に運ばれて、大切にしまわれてきた。
だから、今わたしの目の前にある。それってすごいことだと思う。そういうのが力、なんだと思う。
許されるなら、触りたーい。もっと許されるなら、あの壷を抱えたーい。だっこしたーい。そこからくんだお水を一服、飲みた〜い。
もちろんそんなこと許されないので、眺めることしかできないのだけど。
でも、「そのものじたいの美」というものを知りたい人は、ぜひ、見に行ってください。
モノたちのちからが目から入って元気をもらえるよ。
ほーんと、ひとつひとつの壷や器の中になにか精霊が潜んでいるんじゃないかと思っちゃうくらいの元気さだから。
バーチャルでもリアルでも。ちからのあるモノってすごいよね。ばーっと、作られた場所やその道具を使っていた人たちの時代と時間に、タイムスリップできるし。