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寂しい
スポーツクラブの知り合いにいただいた、秋の味覚。こんなに暑いのに、確実に時は進んでいる。
長い間、助けてくださっていた人が亡くなった。お通夜にもお葬式にも行けなくて、目で確かめた訳でない。でも、亡くなったという事実が、じんわり体のすみずみまで行き渡って、今、とっても悲しい。悲しいを通り越して、まともに作動できない日が数日つづいている。生きてきたあいだじゅう、その人のことはずっと考えていて、なにかピンチになると、ときどき会いにいっていた。会えないときでも、今までの思い出や格言を取り出して、心が痛む部分にぴたっと、湿布みたいに貼って難所をこらえる。そんな大切な人だった。
昨日の夕方、家の雨戸を立てて回りながら気がついた。どんより、心があまりにも重苦しいのは、心があることに気がついているからだ。
あるとき、ぜったいに、親も自分も死ぬ。あたりまえなんだけど、そんなこと普段は忘れている。たいせつな人が亡くなって、そのさけられない現実問題がぶり返す。じっくり味わおう。
寂しいなあ。
言葉で書いてしまうと単純だけど、この寂しい、って気持ちは恐怖に近い。もうそれは、小さい子供のころに感じた、親が近くにいないことに急に気がついたときの絶望的不安みたいな、なにをしても埋まることのない、やるせない苦しみだ。世界の何一つ、留めておけない、持つこともできない、と知ったときのあせりだ。
心に開いたこの穴を無理に埋めたりしようとしてはならないのだと気がついている。埋まりっこないのだ。こいつの存在を認めて、その上で、なるべく楽にたのしく過ごす工夫をしなくては。痛みと穴を見つめ続けていては気が狂う。
よねの物を作ったり、書いたりというすべての「生む作業」の動機は、過ぎ行く時への抵抗。もうだいぶ大人なので、大人らしく理由づけて、前に進もうとしたりする。
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